道のりははるか遠く

宇治文香

 惑星フローラ。
 この星がこの名で呼ばれるようになったのはほんの百年前のことに過ぎない。
 コンピューターという最新の技術によってこの百年は何度も繰り返されるであろうことを誰もが認めていた。強大なコンピューターの傘の元、人々は都市を築き、経済を興した。誰もがそれを自然のことと思うのは、それが安泰な統治であったから。
 密林の葉の陰にある猛獣の目や声を聞くだけで魅了される蛇の声にも怯える者はいない。都市はそれらの全てを遠ざけ、万人の生活を安楽なものとしていた。それ故に無数の差別の喜びを、好意を、悲しみを、憎悪を普遍的に生産する。
 そして生まれた最大の差別は、コンピューターを扱える者とそうでない者。扱えぬ者も都市という傘の下に生きた。だが、そこにはコンピューターという神にも似た絶大な力を持つ者はいない。彼らにできることは傘からはみ出ぬようしがみついていることだけだった。
 はみ出た者たちがこの国を危機に陥らすようなことがあるだろうか。
 桁違いの人口。支配する土地の広大さ。文明の物量。巨大な経済力。組織力。そして何よりコンピューターという武器。これらがある限り、あり得ない。
 だが――
 知っている者もいる。
 全てが春の野の花のように儚いものであるということを。
 明日には何も残っていないかもしれないということを。
 その理由はただ一つ。
 彼らがこの星の主であるのは――真の主がまだ目覚めていないだけだから。

   1

 街道も都市から離れれば人気がなくなる。工業地帯からも農業地帯からも離れた場所がないわけではなかった。
 見渡せば荒野。そして遠くに山。
 伸びている街道も寂しげに移る。空はどこまでも高く、雲が薄く化粧を施していた。真上に見えるかのような太陽は首筋を襲う。
 街道の左右は土の露出する荒野になっていた。アスファルトとコンクリートの欠片が岩のように所々のぞいている。地平線は山に呑み込まれていた。この一帯は昔、工業の発達により衰退した土地だそうだ。
 その街道近くの荒野の中に、少女はいた。
 茉莉は別に構えるでもなく、少年を見ていた――危なっかしく身構えて、前方を見据えているオレンジ色の髪の少年を。少年の表情はいかにも真剣に強ばって見えた。が、育ちの良さのせいか当人の望んでいる高圧的な雰囲気は出ない。
 所詮は人間ということか
 茉莉は微笑が染みついた顔を苦笑に染め直してごちた。自分が今まで見てきた者は人間ではなかった。一人の人間が彼らに追いつくには三十年は掛かるだろう。そしてその間に彼らも成長している。
「茉莉、これでいいのかな」
「ふむ」
 答えに困りながら答えた。顎を引いて、もう一度その構えを確認する。
 深い緑色の髪、茶色の目、象牙のごとき白い肌――森をイメージして作られた人形のような姿。まだ十五歳にもならない少女に見える。
 茉莉は薄汚れた貫頭衣の裾を引っ張り、次の言葉を考えた。短すぎる麻の貫頭衣は、所々綻びていて、白い肌を露出させている。それが都市育ちの少年にどういう影響を与えるかなど考えずに腕を伸ばした。
「行くぞ」
 へ?と少年は呟く。その時にはすでに白い掌が眼前に迫っていた。少年はさっきと変わらぬ構えのまま、身動きも取れていない。
 茉莉は微笑の染みついた顔を無理に引き延ばして笑った。形の良い鼻に触れるか触れないかのところで白い手は止まっている。その手を下げずに少女は囁く。
「何のための構えだ?」
「あ……相手がやってきたときにすぐに守ったり反撃したりできるように」
 少女は手首を返し、少年の鼻先をぺし、とはたく。
「それで、できたのか」
「う……」
 茉莉は少年の方を人差し指で突いた。別に強い力で押したつもりはないのだが、少年は尻餅をつく。腰をさする少年を見ながら、少女は苦笑した。
「カシワ、もう、帰れ」
 カシワ――と呼ばれた少年は鋭い目で少女を見返した。
「今さら帰れるわけないだろ!もう、一ヶ月も歩き詰めじゃないか」
「お前が金を落とすから悪い」
 馬鹿にした、ともとれる口調であった。
「私がいる限り、お前は一番にはなれないな」
 冗談かもしれない言葉を吐いて少女は街道へと戻っていく。
 と――
 瞬間。女のものらしい、甲高い悲鳴が上がる。カシワは前を見て、少女の姿を確認する。茉莉は声のした方に首を向けていた。つまり、二人が来た道。
 その先で、もの凄い土煙が上がっていた。そして悲鳴は断続的に続く。土煙は真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「また来たようだな」
 嘆息しながら街道を降り、カシワの元に近付いてくる。
 その頃には悲鳴と共に、機関銃の音が響き始めていた。土煙を立てる物の正体も音だけで分かるようになる。凄まじいエンジン音と、機関銃の音を響かせて、近付いてくる。
 茉莉は少年を庇うように抱えた。襲いかかる弾丸を避けるために走り始める。
「あっあっあっあ、あがががが」
 街道を降りる衝撃で悲鳴を揺らしながら、バイクが追いかけてくる。舌を噛んだらしく悲鳴はしなくなった。代わりに弾丸が走った後を追いかけてくる。
「ねえ、え、茉莉ー。あっちに逃げた方が、僕としてはラクチンなんだけどー」
 少年の指は目的地へ続くであろう街道の先を指さした。
 茉莉は方向を転換し、凄まじくはない速さで走り始める。街道脇を走る。
「何で、街道の上に乗らないのさー」
 カチッカチッ、という、うれしい音が異様に大きく響く。
「これを待っていたのだ」
 答えると、少年を腕から離しながら、街道に登る。また尻餅をつかされて、腰をさする。太陽の光を浴びて、線を引いたような陰の先に少女のシルエットが飛び出していた。置いてけぼりを喰らった形の少年は体操座りになって身体を守った。
 少年の頭上を単車が飛び越していく。
「茉莉!あなたを逮捕しますぅぅ」
 影を見ると、茉莉は軽く横に飛んで、かわしていた。地も揺れるような音を立て、婦人警官は陰の向こうに消え、空を貫くような悲鳴を上げた。
 それが泣き声に変わるには時間は掛からなかった。
 茉莉はそれを見下ろした。何をするべきなのか分からずに、傍観する他なかったのだ。
 と、そこへ反対側から呻き声が聞こえる。急いで駆け寄ると、カシワが無様な姿で街道脇にしがみついていた。降りることも登ることもせず唸っている。
「何をしている」
 あまりに不思議な行動だったので訊いてみる。カシワは必死の形相で茉莉を見た。
「だずげで」
 茉莉はカシワの肩を掴み、放り投げるように引き上げた。街道に、頭から突っ込む。頭を半分硬い土に入れたまま、しばらくじたばたする。
 起き上がって、振り向いた少年――妙に達観した表情で涙をこぼしている。
「加減ってものを考えろよぉ」
 そして……
「た、助けてぇ。茉莉、お願い」
 また、反対側に駆け寄ると、警官らしきの制服を着た女が街道の土に爪を立て引っ掻いている。
 カシワも隣に立って、婦人警官を眺める。服の埃を払うと、人差し指を下に向けた。
「ぷっ、変な格好」
「お前の方が変だったぞ」
 冷静な言葉に躓きそうになる。が、へこたれない。けたけたと笑って誤魔化す。
「それより、こいつを助けるのか」
 目に涙を溜めて、懇願する婦人警官。それを見下ろす、二人の子供。
 その一人が口を開いた。
「ほっとこう」
 その一言で、二人は連れだって歩き始めた。
 仲良く並んで遠のいていく足音に、婦人警官は喚いた。
「あたしは王立警察の一員なんですからねー。公務執行妨害って重罪なんだから!  あっ、ねえ、待って。お願いよ、茉莉助けてー。減俸は、いやあぁぁぁっっっっ!」

   2

「うぎゅーー」

 拳を振り上げ叫ぶ声――聞き慣れたその声を聞きながら、マリーは黙々と地図を確かめていた。地図はクロリス派発行のものだ。世界一信頼できるものといってもよい。まあ、人によってはゼフィロスの方が良いという人もいるが。
 まあ、どちらにしろ、この辺りの地域は地図に載るような場所ではない。マリーは地図を眺めながら、嘆息した。
 二人のいる土地は、地図と照らし合わせてみると――等高線しか引いていない。
「どうしてなの?」
 叫ぶのは相棒だった。アークシリーズの最新の銃にミディアムグレーのスーツ。銃はともかく、グレーのスーツはマリーの身に付けているものと同一のものである。これは王立の地方警察の制服だ。
 婦人警官。
 なんにせよ、相棒――ローズは、本気で疑問をもっているようだ。マリーは驚いたが、もう慣れっこになっている。
「どうして?指名手配犯を特別休暇中に捕まえて、巡査部長になろうとしただけの、この可憐なローズ巡査が、どうしてどうして、こんなところで道に迷ってなきゃいけないの?」
 赤い髪に負けないほどに頬を赤くして怒鳴っている。間違っても可憐ではない。マリーは控えめに答えた。
「あの〜、ローズ」
 地図を示す。
「『わたしこの辺りに詳しいから任せて』なんていいながら、適当にハンドル切っていったからだと思うんだけど」
「まあ!そんな、マリーったら、先輩になんて口を利くの?」
「ローズの方が後から入ってきたと思うんだけど……」
「まあ、マリーったら、失語症になってしまったのね。ちゃんと黙りなさい」
「なに言ってんだか」
 あまりの勢いにマリーは後ずさる。
「そんなことよりも、パンクしたタイヤの替えあるのよねえ?まさか準備してないとか言わないよね」
「ええ、もちろん!」
 あっさりと、話に乗ってくる。
「パトカーって全部飛行車じゃない?だから、タイヤの予備っておいてないの!少し拝借しようと思ってたんだけど、なかったの」
「つまり、準備してないんじゃないの?」
「そうよ。あったりまえじゃない。でもね、タイヤなんてなくたって大丈夫」
 あまり期待できそうにない。そう思って、溜息をつく。ローズは気付かずに続ける。
「ところで飛行車ってどうやって飛ぶか知ってる?」
「浮遊石の力を……」
 ローズは手を打って、奇声を上げた。
「そぉぉぉ!浮遊石!その力を以てすればどんな物体でも浮かすことができるのよ――さて、浮遊石ってどうやって手に入れるか覚えてる?」
「……拾う」
 ひどく悪い予感がしてきた。こういう場合、裏切らないのがローズだ。
「だからマリー、二人で小石を拾いましょう」
 そこら辺の小石を適当に拾い始める。どれも、あの輝く浮遊石ではない。
 マリーは自分の膝を触った。浮遊石の埋め込まれたプロテクト。これさえあれば歩いて脱出できるかもしれない。ともかく、真っ直ぐ西か東に歩けばよいのだ。
「……!」
 破壊音が、二人の耳を劈いた。同時にオイルの臭いがする。
 音と臭いを頼りに道へ出ることはできそうだ――たぶん事故現場であろうが。
 同じことを考えたらしく、ローズが駆け出す。駆け出した端から躓いていた。それを無視して、マリーは駆け抜けようとした。
 信じられない俊敏さで、足首を掴まれる。
 何でこんな時だけ?――涙が取り留めなく流れそうな、そんな気持ちでズドケっと転ける。その間に立ち上がり、浮遊石を反応させて、どこかへ突っ走っていく。
 マリーは呆れ顔で立ち上がり、プロテクトに触れた。浮遊石が反応して、体が軽くなる。  風を切る音が、心地よい。

   3

「どこから来たかだと?」
 無意味に苛立つ。茉莉は自分を責めた。が、微笑みはそのままに高圧的な雰囲気が漂い始める。
「い、いや、別に言いたくなかったら言わなくていいんだよ」
 カシワは怯えて、首と手を同時に振った。激しく振りすぎたので頭がぼんやりしてくる。
「まあいい、教えてやる。お前は今さら他人とも思えない」
 簡単に説明するために言葉を選び出す。
「私は海山の玉造村から来た。西の果ての果てにある山だ。王国とは同盟を結んでいるが、国の一部ではない。だからお前が知るはずもない」
 カシワはとある伝説を思い出す。関係のないことのようなので頭を振って忘れた。
「それが、何か大変な秘密だったの?」
 茉莉は何も答えずに、前を向いて歩き続ける。いつものことなのだが、茉莉についていくのは疲れる。歩くのが速すぎて、走っても追い付かないことがある。その上、凄い持久力なものだから、休むということを知らない。彼女にしてみれば二千キロメートルの道のりなど、大したものではないのだろう。
「話すと疲れるね」
 訝しげに振り向かれて、たじろいでしまう。だが、歩き続けることなどできそうになかった。
「なら話さなければいい」
 正論だ、が、少女の言うべき言葉ではなかった。
「歩きたくなければ、金を落とさなければ良かったのだ」
 次から次へと刺さってくる言葉の槍に心がどくどくと血を流す。項垂れたカシワを見て、同情したらしい。いつもの表情に感情が宿って見えた。心の傷が瞬く間に口を閉じ、芯の方まで癒やされていく。
「休むなら、木陰の方がいいだろう。見えるか?」
 茉莉と視線を合わせる。青々と茂る森が見えた。これが見えない人間はいないだろう――と思いつつ、ついさっきまで見えていなかったことを思い出す。
「本当に歩けないのか」
 心配そうに見つめてくる瞳。カシワは首を振る。ゆっくりと歩き始めた。茉莉の横を通り過ぎ、真っ直ぐ歩いていく。
 だが、すぐに追い付いてきて、肩を叩かれた。
「負ぶってやる」
 有無を言わせぬ速さで抱きかかえ、背中に回される。荷物のように扱われながらも、不器用な優しさが微笑ましかった。
 木の下に降ろされる。風が身体に溜まった余計な熱を奪っていく。葉と葉から漏れた光が、地面の上で踊っている。
「はい」
 前の町で手に入れた缶ジュースを開けて、茉莉に渡す。茉莉は首を振って、押し返した。
 カシワは自分で開けた缶に口を付けた。ふと、さっきまで茉莉がいた所を見てみる。まるで風のようにどこかへ消えてしまっていた。珍しいことなので、動揺してしまう。
「茉莉?茉莉!……茉莉」
 目の前の太い木の根元にいた。近くにいたのに気がつかなかったのは、自然の中に溶け込んでしまっていたからだ。どこからか現れた蝶と戯れている。喉の奥から出すような優しい笑い声をこぼす。木漏れ日が茉莉の踊りに併せるかのように動く。その木漏れ日すら茉莉の手の上からこぼれ落ちるのを惜しんでいるかに見えた。
 森の妖精――おとぎの国から出てきたのかと思った。
 カシワの視線を感じたのだろうか。蝶がどこかへ飛んでいってしまう。それを追う目は切なげに揺れている。面をカシワに向けた。一瞬見せた、寂しげな表情――すぐにいつもの微笑みが染みついただけの顔に戻る。
 そのまま、カシワに近付いてくる。無言で見つめてくる。ダンスに誘われるようなときめきを覚える。
「……茉莉」
「見たな」
 女幽霊が醜い姿を見られたときのように、囁く。美しく凍えるような響きがあった。その何故か濡れた瞳を怒りに燃やし、睨んできた。
「今すぐに忘れるか、一生覚えておくか、どちらかにしろ。分かったな」
 小さく二度頷く。茉莉は満足したように軽く跳躍した。さっきまでいた木に近付いて、高く跳ぶ。太い枝に着くと、さらに飛び跳ね見えなくなった。
 また遊んでいるのかな、そう思うと何故か嬉しく、そして動揺するのだった。
「そういや、茉莉、どう見たって俺より年下だな」
 呟く。垂れてきた毛虫を片手で払いのける。
「何であんなに大人っぽいのかな」
 女だから、という理由で片付けておく。
 さっきの毛虫のせいで尻がむずかゆくなってきた。立ち上がって、座っていた所を見る。と、白いものが落ちてくる。思わず尻餅をついた。
「もう歩けるのか」
 落ちてきたものがそう訊ねてくる。無意識のうちに頷いてしまった。その後、視線を徐々に上げていく。細い足首、少し堅めの曲線を描いて膝まで続く。その上は全くの直線で足は綻びだらけの麻の布に吸い込まれる。手は後ろに組まれており、少し広い肩の上に微笑する顔が乗っている。その目がカシワの目をのぞき込んでくる。
「茉莉、何でこの木の上にいるんだよ?あっちいったじゃないか」
 カシワは尻餅をついたまま、太い木の方を指した。茉莉は左手でカシワの腕を支え、もう片方に腕を伸ばす。そこに巻き付いたものに、カシワは悲鳴を上げた。
「わー、な、な、な、な、なんだよそれ?」
「木の上で見つけた。ただの蛇だ。何故そんなに怯えるのだ」
 カシワの腕を放し、長い指で蛇の鱗を撫でる。そして同じ指を伸ばしてきた。
「わ、わ、わ、わ、わー!」
 今度ばかりは茉莉の微笑が妖しく見えた。地面を這って進む。
「カシワ!」
 茉莉が文字通り、飛んでくるのが分かる。頭上でぐしゃり、と不気味な音がする。眼には白い足に踏みつけられた蛇が映る。蛇が頭を動かし、口から液を吐く。
「毒だ。逃げろ」
 その毒が、顔に容赦なく降り注ぐ。茉莉が踏みにじると、さらに激しく撒き散らす。
 茉莉は拳を握って、頭を斜めに殴りつけた。牙が口の中で突き刺さり、鱗の外まで出てくる。自分の牙の痛みを思い知った蛇はのたうちまわりながら去っていった。
「逃げろと言っただろう」
 激しく怒る。茉莉の言うただの蛇はまだ、二の腕に巻き付いている。その不気味さもさっきの毒蛇と比べればましだ。
「どうするつもりだ」
 茉莉は指で顔の液を拭う。白い指が、黄色い液体で汚れていく。草で拭うが、その手はすでに爛れていた。自分の顔を想像してゾッとする。
「え、え、え、え、え」
 どうしようもなかった。茉莉は綺麗な手が爛れるのも構わずにまんべんなく顔を撫でてくれる。
 だんだん顔が痛くなってきた。ヒリヒリと擦り剥いたような痛みだ。顔を顰めると、茉莉が撫でる手を止めた。
 見ると、白い手の上に蛇の頭が乗っている。二つに分かれた赤く長い舌を細い指に絡ませる。
 蛇の行動を凝視する茉莉。カシワは腰が引けていたが、動く勇気もなかった。ふと、我に返って、叫ぶ。
「ぎゃあー」
 蛇は喉を鳴らして怒った。茉莉が背を撫でると静かになる。また、指を舐めだした。
「……カシワ、この子に舐めてもらえ。治るぞ」
 ほら、と言って見せられた指。所々、赤く腫れている所はあるが殆ど元に戻っている。
 カシワは仕方なく目を閉じた。なかなか舐めてくれない。目を開けると、口を広げて鋭い牙を見せつけてくる。
「何で茉莉の指だけ治して、俺のは治さないんだ?」
「嫌われているらしいな。だが、その顔では宿に泊まるのも難儀だろう」
 どんな顔なんだろう、という詮索は止めておく。茉莉の的確な表現の訊きたいときではない。
「なあ、頼むよ。蛇ちゃん」
「男だ」
 蛇の代わりに茉莉が答える。人の言葉が分かるかのように、蛇は怒って見せた。また、茉莉の手を舐め始める。
「じゃあ、何?女は舐めても男は舐めない?何かいやらしいし、むかつく」
 殴る振りをする。すぐに茉莉の腕を這い登って、身を隠す。その腕を引っ張ったので、蛇は逃げていってしまった。
「あ、折角懐ついていたというのに」
 心底残念そうに言う。カシワは思いついて、大声で言った。
「液体なら何でもいいのかも」
 飲みかけの缶ジュースを顔にかける。
「ひぃ!」
 しみた。痛みが倍増する。涙が出そうになるのを堪え、茉莉に救いを求めた。
「川は奥の方にあるらしい。水はもう、飲み尽くした。今さらどうしろというのだ」
「水、汲んできて」
 呆れ顔の茉莉。
「すまんが、どこにあるか知らない」
 ふっと横を向いて戸惑うように目を動かす。そして、じっと見つめてくる。
「目を瞑れ」
 何をしようとしているのか分かった。だが、そんなことをしてもらうわけにはいかない。
 カシワは目を大きく見開き、首を振った。激しく左右に振って、逃げる。
「待て」
 後ろからのし掛かってくる。背が弓なりに反らされ、両目に指が伸びてきた。
「う……がああぁぁ!」
 目が潰れる、かと思った。こんなことなら瞑るべきだったとカシワは後悔する。顔の痛みよりも激しい痛み。涙は常時とは違う濃さで流れる。そう、血を薄めたような粘つく体液として。
 正確なことは本人には分からない。
「茉莉、茉莉」
「何だ」
 いつの間にか背中には茉莉の重みを感じられなくなっていた。代わりに枕のような物がある。カシワは茉莉の膝だろうと予想して、手を前に伸ばした。案の定、その手を握り返してくれる。
「大丈夫か。深すぎたかもしれないな」
「深すぎたら、失明するじゃないか」
 いつかは治るだろう顔の爛れのために光を失う馬鹿はいない。
「私ならあれくらいは大したことはない」
「茉莉に大したことなくても俺にはどうか分からないよ!」
 茉莉は手を強く握ってやる。
「目を開けて見ろ。見てやる」
 眩しかった。兎にも角にも光は見える。茉莉の息が鼻にかかった。瞳を見ようと顔を近付けてる。その白い滑らかな肌までもが見えた。
「だ、大丈夫だ。見えるから」
「本当か」
 少し顔を離し、だが、まだ目を見つめる。カシワは何度となく頷く。涙で濡れたその顔を茉莉は丁寧に拭った。
「立てるようになれば立て。待っていてやる」
 囁くと、背筋を伸ばす。膝を枕にして、指を髪に絡ませられて、肩を抱かれて――いつになったら立っていいのかカシワに分かるはずがない。などとは茉莉には分からない。 「急げ、日が暮れると厄介だろう」
 腕を組んで歩いていた。一人は歩き、もう一人は走る。走っている方は足を絡ませ、引きずられそうになっている。それでも歩みを止めずに進み続けている。
 前の方に明かりが見えている。普通に考えて十分の道を茉莉は二分で辿り着いた。
「宿だね」
 しみじみと言うカシワ。茉莉は返事の代わりに扉を開けた。
 暗く湿った空気を押さえつける天井が、実際に中の人を押しつぶそうとしているような錯覚をも覚える。静かな雰囲気が塗り固められている店内は一転、三人の客で塗り替えられていた。
 皆一様に灰色のスーツを着ている。膝のプロテクト。そして無傷の者はいなかった。いや、皆満身創痍だ。赤、青、黄色の三色の髪。胸のバッチ……。カシワは小さな悲鳴を上げた。
「どうした」
「警察だあの青い髪の奴」
 耳元で答えるカシワ。確かに、見覚えのある顔だった。
「野宿をするのか」
カシワは当然、とも言いたげに頷く。昼からの毒蛇騒動で、この森が危険なことは分かっている。
「だめだ。ここに泊まる」
「捕まるよ」
 耳打ちをし会う二人を、婦人警官たちは冷やかした。
「いいないいな。私も彼氏と旅行したーい」
「でもこんなボロい宿はヤダー」
「その前に二人とも彼氏いるの?」
 全く気付いていないようだ。二人は神妙な面持ちでカウンターに向かった。
「一泊いくら?」
「一部屋三百フローラ」
 主人は素っ気なく答えた。
「ベットの数はいくつ?」
「一つ。二つの所は五百フローラ」
 茉莉の顔を伺うカシワ。茉莉は肩を竦めた。
「俺たちそんなにお金持っていないんだ。見ての通り……だから」
「それで」
 素っ気ない口調のまま切り替えされる。
「安くしていただけませんでしょうか」
 答えられないカシワに代わって言う。主人はこくりと頷いた。
「ああ、分かった。ついでだ。二階の右から二番目が開いている」
 主人は蝋燭立てを茉莉に渡した。
 二人は婦警の席の脇を通り抜けて二階に上がる。軋む木の扉を開ける。急いで閉めると、部屋を見渡した。
「なかなかいい部屋だね」
 ベットは一つしかなかった。だが、狭いわけではない。茉莉は背伸びをして壁に付いている蝋燭に火を移そうとする。危なっかしい。
「俺がするよ」
 ほんの僅かな身長差だが、軽々と火を付けることができた。部屋の中心にあるテーブルに蝋燭立てを置く。ずいぶん部屋が明るくなった。
 シーツとカーテンは古いが清潔だ。壁紙は破けたり、汚れたりしている。まあ、一般的な宿だな、とカシワは読んだ。
 茉莉はベットに座ってくつろいでいる。
「お腹空かない?」
 茉莉は首を振って答える。
「下には婦警がいるのだ。降りるわけにはいくまい」
カシワは茉莉の横に座った。この部屋には椅子がないのだ。部屋の中に入ってまで、座り込むつもりはない。
「水、飲みたいね」
 茉莉は頷いた。カシワの腹が鳴る。俯くカシワ。茉莉は微笑んで立ち上がった。
 追いかけようとするが、扉に遮られてしまった。
 再びベットに戻り、座った。腹が鳴るのは止められない。

   4

 背中合わせになって布団にくるまっていた。
「雨」
 茉莉はそれだけ言うと、起きあがる。ベットから出て、振り返る。
「出てくる」
 また、一言だけ言うと窓を開けた。雨水が軒を叩く音がはっきりと聞こえる。茉莉は再び振り返ると
「すぐ戻る」
と、飛び降りる。
 庭全体が、水に覆われていた。避けることなど不可能だ。膝の上まで泥水で濡れる。
 茉莉は歩き始めた。いや、歩くというよりも跳ねる。貫頭衣の裾が泥で汚れたが、あまり気にしない。激しさを増す雨が、付いたばかりの泥も洗い流していく。
「明日は出掛けられそうもないな」
 独りごちる。宿泊料金を思うと気が滅入る。
 茉莉は開いている窓を目掛けて跳んだ。窓枠に腰を掛け、身体を半回転させる。
 部屋を見ると、ベットが二つあった。テーブルの上の鞄が目に付いた。茉莉は目を瞑って、諦めた。再び外を向いて、飛び降りる。
 今度は左から二番目の自分の部屋に戻った。
 桟に腰を掛け、犬のように身体を振る。水をある程度切って、すとっと床に足を付ける。ベットに近寄り――少年に声を掛ける。
「カシワ、カシワ」
 眠っているような息づかいではないのだが、返事をしない。背を向けたまま、寝返りもしない。茉莉は母性の具現の如き表情を見せた――が、その相手は寝た振りをしている。
 濡れた身体でベットに入るわけにはいかない。そう考えて、部屋から出ていった。

 階下から漏れる光が細い線のようになって、見えなくなる。
 カシワは寝返りを打った。起き出し、床を見る。暗さに目が慣れるのを待つ。黒にしか見えない床に沈んだ模様が見えてくる。
 その水たまりを頼りに、ドアを開けた。階段を半ば下りる。
 いや、別に知っていたことだから。
 婦警たちは酒に酔う以上の酔いを味わっていた。主人までもが、グラスを拭く手を止めている。
 茉莉の歌は消え入りそうな音を保ったまま、カシワの耳に届く。カシワも階下の四人と大差ない状態に陥る。
 茉莉はカシワの存在に気が付いたようだ。いつもと変わらぬ顔を、さらに無感情にさせている。その目に一瞬――ほんの一瞬、意志が宿る。カシワは解き放たれたように部屋に戻った。
 いなくなったところで。
「今日、わたしたちはここには来なかったのです、ね」
 四人が頷くのを確かめる。再び、歌い始める。か細く、消え入りそうな声は、森の雨に掻き消され、それでも四人の耳に、心に、そして身体の隅々にまで染みわたる。
 それは微笑となって面に現れる。そこには感情はなく、感性があった。
「明日も歌って差し上げましょうね」
 それは愉楽か享楽か。その微妙な境界線を歌で解きほぐす。線だけを取り出し、見せた。彼女には唯一の楽しみ、欲望を満たす刹那。
 眠ったように――しかし時を失った彼は元の時間に戻れないだろう、永遠に……この時のない世界を頭は忘れても、身体は忘れないだろう。そして二度と、元の時間を住処とは感じられなくなるだろう。
 母性など無いはずの微笑に――四人は満ちる。茉莉はその表情を変えずに階段を上って消えた。階下には、別世界。神の手放さなかった世界。人の引く線そのもの。

   5

 茉莉の危惧は当たり、結局三泊した。カシワは悪びれる様子もなく、婦警に挨拶をする。惚けている三人は返事もしない――元より腑抜けだが、ここまで酷くはない。
 宿のドアを開けた。水と風が程良く混ざった空気。肺の中に入り込む。
「それにしてもすごいね」
 すでに前を行く茉莉に言う。
「催眠術って本当にあるんだね」
 駆けて追い付き、両肩を叩く。茉莉は振り返った。
「催眠術?」
 その横に並ぶと、訊ねてくる。
「あういうのをきっと催眠術っていうんだよ」
 爽やか、だ。全く悪びれていない。
 カシワは自分で自分に言い聞かせる。そしてそれを言い聞かせずとも為せる時――いつか来ると信じる。
 茉莉はその見本のようなものだ。
 まあ、この場合は無知のためだが。
 乳飲み子のような勢いで世間に対応していく。それでもすでに少女であり、信念があるのだろう。どこか染まらないところが神秘的――いや、霊妙であった。
 その力はカシワの色をも抜いていく。
「今では科学で実証されてる、ことになってるけど、それだけじゃないって思うんだ。いわゆる例外だよ」
「……アンユージュアリー・ケース」
 カシワは頷いた。鍔を飲み込んで口を開く。
「そう例外。茉莉は超能力の持ち主。違うかなあ」
 カシワはそれが科学の言い分であることに気付かない。茉莉は直感で裏の意味を読み取る。
 つまり、例外はあってもそれは例外なのであって、原則からかけ離れたものではない――ということ。人ではないものは存在せず、例え異なるものがあってもそれは人であるということ。人以外の知的生命体の存在を暗に否定しているということ。
 こんな言葉が思い付くわけがない。しかし、その言葉の持つ意味だけは感じ取れていた。  真実だ。何しろ、裏に公然と隠されているのだから。
「どうかした?」
 話を聞いてもらえないことは珍しくはない。反応すら示さないことがほとんどだ。
 だが、今、茉莉の手はカシワの服の袖を握っている。
「どうなるのだ」
「何が?」
「アンユージュアリー・ケースはどうなるのだ」
 袖に皺を増やしながら言う。
「どうもならないよ。だって同じ人だろ?尊敬されるのも軽蔑されるのも、その力の使い方次第だし」
 黙殺。
 茉莉の頭を閃光が突き抜ける。思わず、受け身をとるような形で地面に倒れた。転がって衝撃を軽減する。痛みは変わらない。なぜなら光は頭の中で閃いたのだから。
「大丈夫?」
 訳も分からずに駆け寄る、カシワ。
 黙殺。
 茉莉は微笑んだ――心から。
「私は特別だ。そうだろう?」
 有無を言わさぬ、つもりはなかった――とはいえ、カシワは否定できなかった。
「ああ」
 茉莉を介抱すると、言った言葉を振り返る。例外、特別――茉莉を苦しめていたようだ。
 倒れるほどに?
 こっそり笑う。出していないつもりが、最も顔に出ていた。
 不機嫌な茉莉の顔が視界に飛び込む。茉莉は澄まして歩き始める。本人にとっては極普通の態度なのだろう――無知故に――感性というものは時に理性よりも正しく冷静であるときがある。

 鼻歌、音痴。
 この間までは苦ではなかった。何と言っても自分の声だ。
「うるさいわよ」
 ローズが不機嫌に言い放つ。かく言う彼女も鼻歌を歌っていた。音痴なりにも二人の声は一致していた。いわゆるコーラス。
「あれ?マリーこの歌知ってたの」
「あれ?ローズこの歌知ってたの」
 知らなかった。だが、知っている。自分でも訳が分からない。
 そして再び。決して枯れているのではない。どちらかというと二人ともよく通る声――それがなぜか、はしたなく聞こえる。
 掠れるほどの高音ではない。だが、どこまでも裏声で出しているような感覚――そうあの感覚だ。
「あの?」
 思い当たる節が全くない。だが脳は、いや神経があの、あの、と叫ぶ。
「あの?」
 二人は顔を見合わせ、微笑む。
「はやく、指名手配犯を見つけないと、休暇は後三日しかないのよ」
「あやめ先輩〜!」

 声は空から降ってくる。聞き覚えのある声だが、遠すぎてよく聞こえない。
「小百合ですぅ」
 三人は揃って上を見上げて、声を聞いていた。小百合――三人にしてみれば、利用価値のある女。はっきり言えば有能なお人好しだ。
「ローズ・マリー先輩!所長がとってもお怒りですよう」
 ローズとマリーは顔を見合わせた。怒られる理由は思い当たらない――まあ、 マリーにしてみればただ単に麻痺しただけだったが。とにかく、休暇中にまで所長に怒られるのは嬉しいことではない。
 何せ、小百合は将来を約束された、キャリアである。ちょっと社会勉強に婦警をやっているだけだ。当然、所長は甘い。
「降りていらっしゃいよ」
 脳天気にローズが言うが、降りられそうになかった。辺りは木だらけでヘリコプターの足場すらない。きっと、小百合の視点では地面に串がたくさん突き刺さっているように見えるだろう。
「側に降りとくんで、追いかけてきてください」
 助かった、とマリーは呟く。この二人と来たら、マリーの忠告も聞かず、あちこちさまよい歩くものだから、今どこにいるのか皆目見当が付かなくなっていた。小百合がいれば、この暴走する二人もある程度止められるだろうし、森の外に出られることだけは確実だ。
 浮遊石を反応させながら、あやめ、そしてローズとマリーが走る。ただ走っている姿は、婦警らしくかっこいいかもしれない。などと考えているうちにヘリコプターの音が激しくなっていく。
 少し遅れていたマリーの前で二人の浮遊石の反応が、ぴたりと止まる。
 その背中にぶつかりそうになりながら、浮遊石を最大に反応させる。ぶわっと一瞬だけ体が浮いて、止まった。
「何これ?」
 あやめが言うと、ヘリコプターから出てきたばかりの小百合が笑った。薄汚れた三人と違って、洗い立ての白も眩しいブラウスにおろし立てかと思えるほど折り目正しいスーツ――なんか悔しい。
 あやめが指さした先は、ヘリコプター。確かにあまりの旧型なものだから誰でも呆れたくなるだろう。
「えっでも一応、浮遊石は付いてますよ。制御できないけど」
 付け足された言葉が問題だった。制御できない浮遊石など、拾ったものと代わりない。精錬されて初めて浮遊石は浮遊石として働くのだ。
「よくそんな旧型免許取ってたわね」
「はい、家にあったんですよ」
 マリーは新鮮な驚きを覚えた。金持ちの家はだから……。
「何のようなの?」
 ローズが不機嫌に言う。所長が怒っていることがよほど理不尽なようだ。
――自覚がないということは便利ね
「あのぉ、お二人の休暇はとっくに終わっているんですよ。それに先輩の単独行動は認められないって……」
「なによそれ!」
 あやめがくってかかると小百合は泣きそうな目になった。
「だってぇぇ」
――もしかして荷物増えた?
 本人はまともなつもりでも、天然なのだからどうしようもない。三人を統率して暴走しないようにするのはマリー一人では無理がありそうだ。
――私、泣きそう

   6

 喧嘩をしたわけではない。茉莉が無口なだけだ。
「茉莉。休みたいよ」
 茉莉はうむ、といって地べたにしゃがみ込む。それが主要道路であろうと荒野の一本道であろうと関係ない。カシワはその隣に屈んで、茉莉に笑いかけた。
「ねえ、茉莉。都に着いたらどうする?」
 茉莉は風に髪を乗せた。元々ボリュームのある髪の毛がさらに広がって、鉢巻きが解けそうになる。
「天下一武道選手権に出る。他は決めてない」
 風に揺れている緑の髪に触れたいような願望が胸によぎる。だが、それが欲望だとする感情に恥ずかしさを覚え、やめた。
「茉莉、都に着いたらお別れなのかな」
 茉莉は立ち上がった。
「知るか、馬鹿」
 前よりも速く小走りに進みはじめる。ばさばさと強風に煽られる旗のような音を立てて、髪が茉莉の首を見せたり隠したりする。
「馬鹿?……なんで」
 確かに、全財産を入れた財布をなくしたのは馬鹿だった。だが、あんなに冷たく言う必要があるだろうか。いや、茉莉は別のことを言っているのだ――何のことだろう?
「茉莉、待って」
 茉莉は振り向いた。足をクロスさせて高く跳ね、体を半回転させる。
「……カシワ」
 茉莉の唇が開くが、音は出ずに閉じられた。
「と、いうわけです。先輩」
 ローズとあやめはうむうむと頷く。マリーは気になって尋ねた。自分の声もヘリの音に紛れてしまう。不思議と小百合には聞こえるらしい。
「あ、でもそんなことは心配ありませんよ」
「なんで」
 三人で揃って言うと、何とか声になった。
「だってほら、所長の息子さんのお嫁さんの親戚の誰かの作品ですよ。失敗なんかしませんって」
 理由になっていない。マリーは涙が流れそうになるのを必死でこらえなければならなかった。
 茉莉たちの姿が、下の方に見える。また、喧嘩したらしくカシワが置いてけぼりを食っている。
「あそこにいる」
 マリーが叫ぶと、小百合は先回りするために高度を上げる。今までは相手を見つけるために飛んでいたのだ。
「ほら、じゃあ行きますよ。ローズ先輩、よろしくお願いします」
 ローズは普段はただのぼけだが、優秀といえなくもない。銃に関してはマニアの域に達しているし、都でも手に入らないような最新の武器をいつも身に着けている。それを使えと誰かに命じられると、この上なく頼りになる相棒に変化する。つまり、思考回路が少しずれた天才……と言えなくもないこともないような気のする人間なのだ。
「あやめ先輩はこっちの機械の攻撃に回ってください」
 かなり大きいヘリコプターの中にどでーんと置かれた謎の物体。その中に、あやめは入っていった。謎の物体にはたくさん穴が開いていて、ぱっと見はゴルフボールに見える。人は二人か三人くらい入れそうだ。
「マリー先輩は翁石が使えますか」
「いいえ。ちょっとした情報処理がやっとよ」
 小百合は微笑んで、無邪気に言う。
「じゃあ、情報処理をお願いします。あの中に入ってください」
 躊躇するのは失礼だろう。警察というのはたとえ後輩であっても血筋は重要なことなのだ。
 とはいえ、年頃の女の子がピンクの腐ったような色の丸い物体に入るのは気が引けた。しかもその物体は微妙に変化しているのだ。球体であり続けることはない。
「翁石は使えないのよ」
「その方がいいんです」
 きっぱり言う。仕方なく、そのぶよぶよ動くボールに入る。
「じゃあ着地します」
 外にいる二人をうらやましく思いながら、マリーは球体を跳ねさせた。

   7

「何だ、あれは」
 カシワは胸をなで下ろした。自分だけではなかったのだ。あの腐った粘土みたいな物体は茉莉の目にも見えている。
「なんだろう?」
 聞きたいのはカシワの方だ。今までいろいろな物を見てきたが、あんな変な物を見たことはない。変なピンクの物体はこちらに向かって跳ねてくる。クラゲのように形を変えながら、ぴょこぴょんぴょこぴょん跳ねてくる。
「気持ち悪いね」
「ああ、避けよう」
 物体は逃げられないほど近くに来ていた。道を開けて、通り抜けてもらおうとする。しかし、避けた方向に向かって跳ねる角度を変える。
 そして突然

「な、に、よ、こ、れ、」
 マリーはキーボードを打つ手がぶれないように気を付けた。翁石で処理する量の情報を人の手で打ち込もうとすると、経験だけでは補えない。指の長さや太さといった、先天的な物まで関係してくるのだ。
「し、し、しらない、わよ、」
 あやめはマリーの頭に肘を乗せている。跳ねる寸前に、窪みから触手を出して衝撃を和らげる。作業をしている間に夢中になってしまった――のだかどうだか。あやめの肘が頭のつぼを刺激して気持ちいいような痛いような……。
「い、痛い、わよ、ちょ、ちょっと、離し、なさ……」
 途切れ途切れになるのは乗り物が揺れるせい。マリーはいらいらとキーボードを叩き続ける。
「茉莉がいます。先輩、もう少し右です。そのまま、三十度左へ触手を伸ばしてください。ローズ先輩、援護の方をお願いします」
「うしっ」
なにゆえうし?などと考えている暇はなかった。跳ねるのをやめさせて、あやめが触手を伸ばすのを手伝う。
「左斜め前ねえ。このへんかな?」
 ぶにょぶにょした表面に直接座り、どこからともなく伸びてきているコードにキーボードをつないでいる。窓もなければ、スピーカーもなく、なぜか聞こえてくる小百合の声が頼りだった。
「もう少し右です」
「捕捉できているの?あの茉莉の姿を」
「いいえ。茉莉は全く動きません。触手が空ぶっているだけです」
「のへっはあっ」
 ローズが、銃を撃ちまくっている。いつものことだが、茉莉には一発も当たっていないだろう。
「そうです。その角度です。もう少し伸ばしてください」
 引き寄せられる感覚。少年の悲鳴が聞こえたような気がした。何度もいうようだが、ここにはスピーカーがないのだ。
「締め付けてしまいましょう。ついでに、痺薬も注入しちゃいましょう」
 さらり、というよりも無邪気に言ってのける。マリーは呆れつつ、プログラムを実行した。

 血便に牛乳を混ぜたような触手がにょきっと生えて、こちらへ向かってくる。今までのものとは違い、カシワに狙いを付けているような動きだ。
「いやだー。なんか汚いしー」
 避けようとしたが、少し遅かったのか。さらに伸びた触手が行く手を阻んだ。カシワに絡みついてしまう。少しずつ、だが確実に力が強まっていく。抵抗すればするほど、窮地に追いやられていくような気がした。だからといって、抵抗しないのは馬鹿だ。
「……茉莉」
 茉莉はカシワを小首を傾げて見た。いや、確かにかわいいんだが……そんなことは関係ない。
「があぁぁっぁぁぁっぁ」
 悲鳴を上げてしまう。まだ意識はあった。背骨が折れそうにしなって、痛い。痛みを感じる意識はあった。
 茉莉は無言のまま、カシワから目を離した。
 普通の人間なら浮遊石を使っても無理なくらいに飛び上がる。その勢いは自由落下をひっくり返したよりも速いだろう。途中で体勢を変え、宙返りをする。その間にも、いくつもの弾丸が分解され、茉莉の体にたたき込まれている。
 サッカーボールのようにヘリコプターを蹴った。部品と部品が軋んで狂う音がカシワの耳にも聞こえる。ヘリコプターはプロペラの動きを止め、きれいな曲線を描きながら、荒野の果てに消えていった。
「うっ……」
 カシワの声は聞こえたろうか。カシワに確かめる時間は与えられなかった。痺薬の効果は少年の体にはおもしろいように効く。

   8

「なんか、ヘリが壊れたみたいね」
「じゃあ、適当に触手を伸ばすね」
 普通の人間なら開き直ったというべきなのだろうが、ここは噂のあやめ。天然ぼけぼけ脳天気思考で至極当然、とでも言いたげに語る。
「何でそんな考え方になるのよ。これって間違いなくピンチよっ」
「そお?」
 頭に肘を乗せたまま、あやめはボタンを押しまくる。やっぱり、開き直っているのだろうか。それともいつもこうなのか――どちらにせよ、小百合の苦労が分かる気がする。
「おっ、捕まえたみたいよ」
「うっそー?」
 我ながら素っ頓狂な声。なんせ、賞金首のかけられた少女だ。捕捉するなんて、無理だと思っていた。

「解かれる!」
 意外に神妙な声で言った。マリーは麻痺毒を注入した。
「……解かれた」
 プログラムの実行が遅れたのか、毒が回らなかったのか、茉莉は触手から逃れたらしい。
「あれ?また捕まえちゃった」
 おかしい。何かの罠ではないだろうか。何も見えず、聞こえない中そう考える。適当にボタンを押しているものだから、動きが見切れないのだろうか。
「同じところに、触手を集中させるのよ」
 マリーは麻痺毒を注入し、縛る力を強めていく。

 茉莉は悔しかった。
 得体の知れないものに縛られた上、体の自由が利かない。旅に出て以来の悔しさに、かつての生活を思い出しそうになる。そして同時に浮かぶ、優しい人の顔……。
「……薄荷」
 自分の呟きが、自分を救うこともある。力を与えてくれるときがある。
「……薄荷」
 弱まっていく意識が、呼び戻される。ただ、その名に反応するのは自分だけではない。どちらかというと、自分よりも奴の方が強い想いを持っている。普段は分かっていても、今は薄荷の名を唱えることしか考えていない。
「……薄荷」
 意識が、失われるのを自覚した。気が付いたときには遅かった。奴だ。
 茉莉は悔しかった。

 歌が満ちる、ということはあるのだろうか。だが、実際に起こっているのだからあるのだろう。
 スピーカーも何もない。大きな音以外は聞こえてこない――はずだ。
 その音はかすれそうなほど弱い。だが、決して途切れることはなく、心の奥底まで染みわたる。深い森の中に封じられた想いが蘇る。
 光に満ちるように、歌が満ちる。夜明けのように新しい世界が広がる。
 新しい世界――かつてないほどの悦びに満ちている。一度味わったら、忘れられそうにない。
 享楽の世界――広がるのは熱く優しい想い。冷たく悲しい思い。
 思い出せるだろうか、緑の世界を……。
 彼女の迷いは、彼女の魂と茉莉の体を介して、二人の心に伝わった。
 碧の歌が、森の歌う森の歌が、彼女の歌う彼女の歌が……茉莉の口からこぼれ出る。
 優しさと厳しさ――母なる暖かみはどこにもない。あるのは大いなる慈愛……の破片――の歌。
――また、お前が私を救うのか
 わずかに残った意識が叫ぶ。叫んでも、歌に紛れて聞こえなかった。ただ何となく、悲しみが悔しさが、マリーの心に響いた気がする。
――お前は私の何なのだ
 今度の叫びははっきりと聞こえた。風のように気まぐれな歌はすぐにそれをさらっていく。
――……
 聞こえたような気がした。しかし、恥ずかしげに漏らされた想いは、それだけで享楽の世界を破壊した。茉莉の呟きは彼女の心を打ち――彼女の裡の血を押さえつけた。
 消えていく歌はいつ消えたのかも分からない。
 元からなかったのかもしれない。

   エピローグ

「大丈夫か」
 思いやりのある言葉と、心地よい枕にカシワは首を横に振った。
「ごめん」
 いきなりの言葉に、茉莉は首を傾げ、カシワの眼を覗き込む。カシワは反らすことも見つめ返すこともできずに、言葉を失った。
「何だ」
 少し焦点がずれる。今度はその茶色い――さっきより霞んで見える目を見る。
「俺がひったくりなんてしたもんだから」
「ああ、そのことか」
 茉莉は微笑みの張り付いた顔を無表情な感情で色付けいている。先程、わずかに見えた優しげな微笑みは気のせいだったのかもしれない。ふと気になって尋ねる。
「俺のこと、どう思ってるんだ?茉莉」
 茉莉は答えなかった。ぴくりとも動かず、ぼんやりカシワを見ている。
 そのことは茉莉の方が訊きたいくらいだ――ということなど、カシワは知らない。

 かつての工業都市――今は荒れ野。風は寂しく、空は霞んでも青い。
 そんな歴史の一ページだかなんだか……
「のへっはあっ、うぎゅぎゅっとぉっ」
「うんうううっんうっ、はぁっ」
 古い工業都市によく似合うヘリコプター――壊れている。中にいるらしい人たちは、不気味なうめき声を上げながら、外へ出てきた。
 アーク式の小型銃と最新の大きめの銃。グレーのスーツのスカートは少し短い。見るからに警官だ――それも婦警。
 髪や服を所々焦がしている。赤い髪の女は犬のように体を振った。灰が舞い落ちる。白に近い銀髪の女は、何度か飛び跳ねた。
「やっぱ、マリーじゃないと調子が出ないわー」
「ええ、私もそう思います」
 きっとお互いに、相手のぼけ加減に呆れてしまったのだろう。

 荒野の一本道。たった一つの舗道――今や使われることも少ない。回復してきた自然たちが草を育て、比例して道が道でなくなっていく。
 そんな自然の摂理の内だかなんだか……
「……」
「……」
 道で行き倒れているのは似合わない女たち。しかし事実倒れている彼女らは無言のまま、草を見ていた。
 アーク式の小型銃と割れたキーボード。グレーのスーツのスカートは少し短い。見るからに警官だ――それも婦警。
 眼からは色が抜けている。オレンジっぽい髪の女は空を見上げた。口が開く。深い青い髪の女は、寂しげに笑った。
「お母さんだって……」
「あの子、まだ十歳を超えたくらいよね」
 なぜか、二人とも落ち着いた口調で呟いた。

 都まで後、三百四十四浮遊石歩。



どことなく、パロディの雰囲気がしますね。

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