一本道

 帰り道は一本道。私の家はその先、行き止まりの五つ前の家。 庭に柊。犬は飼ってない。猫もいない。
 ドアは閉まっている。冬だから。夏の昼間は開けっぱなしになっている。 白いレースの暖簾が吊るしてあって夏休み友達と花嫁さんごっこをした。 友達――ヒーコはクラスでお嫁さんと呼ばれてた。そう呼ばれるまでは二人で 花嫁さんごっこをしてた。
 ヒーコの家は一本道の突き当たり。行き止まりにしている家。 野薔薇がリンと立っていてゼラニウムが毒気を撒き散らしている。 それからジョンがいる。ジョンはシベリアンハスキー犬。だんだん 大きくなってよく吠えるようになった。ジョン って呼んでも返事をしなくなった。猫もいる。白い太い猫。 どこまでが脂肪でどこからが毛なのかわからない。 真っ白いふわふわの猫。触ったことはないがきっとふわふわなのだ。 名前はシロ。とても、そんな名前が似合うようには見えない。

「帰り道は一本道。私はその先行き止まりの五つ前の家」
 タクシーの運転手に告げる――ことはない。曲がる手前、 長い一本道に入る前に止めてもらう。
「おつりちょうだい」
 けち臭い? 大丈夫、ここは繁華街じゃない。おつりをケチる運転手はいない。 真面目に毎日貧乏してる。
 今日も一人で家に帰る。たった一つの家。
 突然、両親は家から消えて、私はひとり家に残った。
 普通なら不可能だ。未成年の――まだ中学生の私が小さいとはいえ 家を貰うなんてことは。でもできた。 それは面白いくらい悲劇的な事件だった。
 それからヒーコに会っていない。
 両親は忽然と消えた。
 死んだのだと聞いた。
 有名な事件になった。一家惨殺――私は受験勉強で家にひとり残ってい た。祖母の一回忌。親戚ほとんどが集まって……冗談みたいに死んだ。
 犯人を恨む暇もなかった。訳の分からない手続きでてんやわんやで。 両親の命日は忘れた。でも、また犯人の時効が来たら思い出すと思う。
 それから「こどものいえ」という名前の施設の園長がやってきた。
――こどものいえへきたらこうこうそつぎょうまでみんなとすごせます よ。
 でもおとなになったら追い出す。ひらがなで話す大人。気味 が悪い。さようなら。私は白いレースの暖簾の向こうにおじさんを追いやった。 もうすぐ私は高校を卒業する。
 親戚中の財産を総括するとマイナスになる。私はあわてて相続権を放棄 した。中学三年生。夏から冬にかけて。死人を悼む暇もなかった。 人生で一番忙しい日々。
 変な頭の使いすぎで私は高校に落ちた。
 今は、滑り止めに受けていた私学に通っている。軽率なクラスメート。 シロみたいな空気の中を私はひとりで泳いで逃げる。血の海みたいな、でも 白い白い世界。お嬢様も泳いで渡る海。 それももうすぐ終わる。卒業すれば大学に行ける。

 それは、何か変な出来事。
 私が生きているということそのものが。 死にたいとは思わない。でも生きているのは不思議。 生きて高校に行ったのが不思議。大学に行けるのが不思議。あなたは幽霊です と言われたほうがリアリティがある。
 私はなにか間違えて生きている。 それが何か私は知っている。だから、あれからヒーコに会ってない。
 帰り道は一本道。その先が私の家。そしてヒーコの家。
 物思いにふけりながらゆっくり坂道を上っていく。丘の上の風の匂い。 冬の空気はすぐに鼻腔をだめにする。
 ドアは閉まっている。ドアの内側からオレンジ色の光がもれている。 私はためいきをついた。

「ユミ!」
 クラ友サヤカ。割と友達。よく話す。明るいのが身上。髪はだいたい お揃いの長さ。肩につかない長さでたっぷりすいてもらってストレートパーマ を当てている。私の方が少し長いかな。ストパーも当ててない。 些細な差だ。ぱっと見てから女子高生。 彼女のデータを整理しながら、笑顔を作っていく。
「あのね、コンサートのチケット手に入ったのよ。いっしょにいかない?」
 彼氏はどうなのよ。サヤカは右手を風切り音がするほど振った。
「ムリムリ。たのしくないジャン?」
 サヤカはカタカナでよく話す。だからまだ許せる。 ひらがなで話す大人は大嫌いだ。私はカタカナだって漢字だってローマ字だっ て、今では英語も読める。とりあえず予定見てみるわ。サヤカはその 答えが気に入ったようだった。
――嫌だったら嫌って言ったらいいんだよ。
 そしたらさようならがいえるから。あの人は漢字で話した。私はひらが なで話す。あの人の前では絶対漢字で話さない。
――有美ちゃんは頭が良いね。
 露ほどもそんなこと考えていないのは知っている。だって私はいつでも ひらがなで話すから。嫌なんて嫌いなんて漢字、難しくて言えない。
 古文の授業。割と得意だ。漢字がたくさん出てきても私は物おじしない。 ひらがなばかりでも同じ。読みにくいけど意味もわかりにくいけれどでも 気持ちがわかる気がするから。平安時代は感性が豊かで嫉妬しない女性が理想 だったんだそうだ。かんせいがゆたかでかみもながくて嫉妬しない。 そろそろ髪を切った方がいいかな。サヤカと同じ長さがいい。
 私は手帳をあけた。来週の金曜日。サヤカがコンサートのチケットを取っ た日。でも元からそんなもの印も付けない。だって、もう印が入っている。 シャープペンシルで丸を書いてある。いつでも消しゴムで消してしまえる シャーペン。先約があったから。 そう言えばサヤカはいいって言ってくれる。いつもそう。 だからマブって呼ばれても構わない。きっと、なんだかんだで彼氏と行 くんだろう。
「そっか、ザンネン! また開いてる日教えてよ。カラオケ行こ」
 コンサートで聞いた曲歌うヨ。とサヤカは笑って言う。 つくづく、自分は付き合いの悪い友達だと思う。ちょうど良い間隔に友達 が存在するということは、友達がいないってことと同義。

 それから、それから。
 また恐ろしいほど時間がたった。
 ヒーコと会わない時間が。

「帰り道は一本道。私はその先行き止まりの五つ前の家」
 タクシーの運転手に告げる――ことはない。曲がる手前、 長い一本道に入る前に止めてもらう。
「おつりちょうだい」
 けち臭い? 大丈夫、ここは繁華街じゃない。おつりをケチる運転手はいない。 五千円札渡して返ってくるのはいつも二千円とちょっと。 お札が二枚。
「おつりはいらないわ」
 私はお金を受け取らない。
 ヒーコに会うのは恐ろしいことのような気がする。たった四件先に いつもいるのに。大きな声で笑えば声だって聞こえそうなのに。 夜はジョンが吠えてばかりいる。ああ、でもときどきピアノの音が聞こえる。
――おつりはいらないわ
 いい言葉。だって漢字の入る余地がない。 同じことがおはよう、こんにちは、こんばんは、ありがとう。それから、 さようならに言える。さよならならカタカナでも書けるけどさようならはきっ とひらがな。
 丘の上の匂い。嫌いじゃない。ヒーコと過ごしたすべての季節を通して 知った。この匂いを揺らすのはきっとわたしだけ。
 ピアノの音が微かに聞こえる。優しくなんてない。いつも荒々しい。 そうでなければ音が外に洩れたりしないようにできているのだ。ピアノレッス ン用の部屋。二人きりで部屋に閉じこもって楽しくて優しい音を聞いた。 私は本を読んでいたけれど、ヒーコの音は大好きだった。喧嘩をした ときもヒーコはピアノを引いた。大人しいふくよかな、お嫁さんと呼ばれるヒー コの体のどこに隠れていたのか、ピアノの音は同じ曲を怒りで包んでしまう。
 今日も扉は閉まっていて、オレンジ色の光が見えている。
 ヒーコのピアノが聞こえている。
 今日はサヤカみたいに。
 きっとサヤカみたいに。
 サヤカみたいに気軽に。
 ヒーコの家に行きたい。
 そして、さようならを
言いたい。
 涙は流れないはずだった。いつだって心はどこか余所に。そうだ、ヒー コのピアノの中に隠してきた。最後の日。ヒーコがいないレッスン用の部屋で 本を読んでいたけれど、ヒーコの音が聞こえるようだった。あの日忘れて来た ものを今夜取りに行こう。
 ヒーコは怒っている。許してくれないかもしれない。でも、このままで は心がないまま、泣いてしまう。目をぎゅっと閉じた。上下のまぶたが少しだ け濡れる。でも涙は溢れてない。泣いてない。
 ジョンが吠える。「ジョン」と呼んだら少しだけ静かになった。 吠えるけど鼻も鳴らす。恐くない。何にも恐くない。ヒーコに会うのも。 野薔薇がリンと立っている。ゼラニウムはまだそんなに臭くない。凍ったよう な茎がかわいそうなくらいだ。 血色の悪い花が散りそこなって茎に張りついている。表札と一緒になったチャ イム。押せばピンポーンピンポーンピンポーンと部屋の奥へ奥へと音が伝わっ ていく。涙が出そうなくらい寒い。固く目を瞑って、乾いた目を見開いて チャイムを人差し指で押した。
――ピンポーンピンポーンピンポーン
 引き戸を開ける音、ぱたぱたというスリッパで歩く音。まだ耳から離れ ない荒れ狂ったピアノの音。
 白い、あいかわらず白いドアが開く。
 お母さん。ヒーコのお母さん。ヒーコには似てない。
――有美ちゃん?
 驚いた顔をしている。それはそうだ。もう何年もここには来ていない。 でもジョンだって覚えてくれていた。意外だなんて思わずにいつも通り吠えて た。言葉を失いもしなければ叫んだりもしなかった。
――有美ちゃんが来たわよ!!!
 「あなたー」と叫びながらヒーコのお母さんは家の中に飛び込んでいっ た。門の外でゼラニウムの臭いを感じながら、白い茎の毒で鳩のように死 ねたらいいのにと思う。
 ものすごい足音を立てて、走ってくる。開け放したドア。クリーム色の 光がもれている。神々しいくらいに。赤と白のギンガムチェックのスリッパ。 フローリングの上で何度も滑りそうになりながら走ってくる。
 逆光で顔は見えないけれど多分ヒーコ。ピアノの音がやんでいるから。 鈍臭い走り方だから。
――ユーミ
 お揃いの呼び名。久しぶりに聞いた。スリッパのまま、ステップを駆け おりて門まで走ってくる。がちゃがちゃと門を開けようとするがいろんな手順 を踏まないと開けられないらしい。頑丈な警備だ。
 おじさんがゆっくりまっすぐ動じずに歩いてくるのが見える。
――ヒーコ
 ヒーコの手は暖かかった。柔らかくて白くて、私の手の上で消えてしま いそうなくらい。門越しに私たちは手をつないでいた。
 ほんの少しの間で。ヒーコを押しやっておじさんは門を魔法のように開けた。 おじさんの手で、私たちは隔絶されていたのだ。
「お別れを言いに来ました」
 最後まで言えなかった。おじさんは私の腕をつかんでものすごい勢いで 引っ張った。引っ張られて鞄を取り落としてしまった。ヒーコと逆に靴を 履いたまま私は家に上がった。
「電話しろ。一時間遅れると言っておけ」
 ヒーコは追いかけてくる。でも間に合わない。迷っていたら間に合う訳 がない。
――さようなら
 私は叫んでいた。レッスン用の部屋に突き飛ばされながら、私は叫んで いた。
 ゼラニウムの匂いで鳩のように死ねたらいい。

おわり


このあとずっと狂気ものを書いている気がせんでもなし
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