黒い喪服と銀の甲冑

宇治文香

 灰色の服を脱ぎ捨てるとき、彼女たちは色とりどりの世界の中に投げ入れられる。
 一生のうちで最も輝く笑顔を見せて外界へ飛び立っていく。檻から一羽、小鳥がいなくなったところで、環境は変わらない。代わりはいくらでも入ってくる。大勢はいつも同じようでいて、中は絶えず変わっていく。結局、大勢が変わることはない。それが不変というものだ。
 白いドレスは新たな囚人服である、ということなどに、少女達は気付かない。
 彼女も――少なくとも少女と呼べる時期に気付くことはなかった。

   1

 どうして、こんなに笑っていたのかしら。
と思う。白い、こてこてしたドレスを着て、首を重たそうに――しかし、誇らしげに掲げて。見せ物にしか見えない。
「おかあさま、おかあさま」
 小さな指がウェディングドレスの――最早、自分でない自分を指す。
「なぁに?」
 現実に引き戻される。例えば、母であるとか。
「誰か来たって」
「あら、そう」
 彼女は立ち上がり、スカートを叩いた。その色からは想像も付かないほど軽やかに裾が踊る。
 すっかり母親に戻った彼女は、幼い一人息子の手を取った。

 黒いベールの向こうで、女の目はどこを見ているのか分からない。
「お一人で、この莫大な土地を管理なさるのは大変でしょう」
 一瞬、合ったと思った目は長い睫毛の影に隠れて、もう見えない。
「わたくしがおりますから」
 とぼけているのか、分かっていないのか……彼女は白いティーカップを細い指で持ち上げた。前に見たときより、さらに細くなっているような気がするのは気のせいだろうか。
「ですからね、エナ」
「貴方に愛称で呼ばれる覚えはございませんわ。あの人の残したものはなにひとつ譲りません」
 言葉通り、決して遺産を壊すまいと……優雅な手つきでカップを戻す。
 だんっ。
と、扉が開け放たれる。エナはゆっくりと振り返る。先程までの雅の中に隠した牙はない。
「おかあさま、おかあさま、またお客様が来たよ」
「……エナ」
 かつて彼女は自分たちの故郷であった。故郷に帰る目的そのものだった。
「ヴィエナ、と呼んでいただけませんこと?わたくし、とうの昔に故郷を出ましたの」
 扉の手前で振り返る。
「戻っていらっしゃい、エナ」
 扉はやはり静かに閉じられた。

 結い上げた髪を解くと膝に届きそうなほど長い。闇と溶けて、境界がはっきりしないほど黒々とした髪だった。エナはその髪を切らなかった。
 だから今も、意味もなく高い寝台から髪の毛だけを垂らしていた。
 髪を伸ばしはじめたのはいつの頃からだったか忘れた。随分昔だ。教会に連れて行かれるより前だったと思う。恐らく、その頃には夫となるべき人も決まっていたのだろう。男爵家の庶子が子爵に嫁ぐことは珍しいかと思う。しかし、決まっていたのだ。 あれこれと思い返すうち、眠たくなってきた。ヴィエナは目を閉じて、夢の中に入っていった。

「おかあさま、マークと一緒に遊びに行ってもいい?」
 また、狩りに行くのだ。ヴィエナは小さく微笑んだ。
「いってらっしゃい。気を付けるのよ」
 すっかり、マークになついてしまった。周りから攻めていこうという魂胆なのだろうが、それならば、記憶でも消し去ってもらいたいものだ。近頃、妙に昔のことを思い出してしまう。恐らく、夫がいないからだ。
 マークとは昔、故郷の原を駆け回った記憶がある。今でも、同じようなことをして、遊び続けられる気楽な立場なのだ。そこから抜け出そうと、子爵の位を狙う思考が理解できない。
「まあ、わたくしも同じようなものですけれど」
 あくまでも、子爵の位を息子に渡そうとしている。決して、楽ではない位であるのに。自分も狂ってきているに違いない。

   2

 倒れた拍子に、櫛が落ちた。体が付くより早く、長い髪が大理石の床の上に広がる。
「ヴィエナ様っ」
 領民達が駆け寄ってくる。夫が病死したときさえ、顔色一つ変えなかった女が倒れたのだ。皆、自らの目を疑った。同時に、心の奥が小さな針で刺されたような気になる。
 領民達は思いつく限りの方法で、彼女を起こそうとした。まるで、白雪姫を介抱する小人のようだ。ヴィエナは戻れなくなりそうな闇から帰ってきた。
「……早く、取り返してきて。なんだってするから、ねえっ、マーク」
「マーク様は男達を率いて、北の方へ向かわれました」
 恐らく、マークでは無理だ。
 ヴィエナは立ち上がった。そのまま、寝室に向かって歩き始める。領民達は後からぞろぞろ付いてきた。
「付いてこなくていいっ。食料なら地下室にありますわ。点呼を取り終わったら、取りに行くのよ」
 ようやく出た、領主らしい言葉に領民達は安堵の溜息をついた。
 ヴィエナの考えていることは誰にでも分かる。だが、誰も止めない。胸の奥がうずいていた。

 マークでは無理だ。マークでは無理だ。
 小さな頃、何度もとっくみあいの喧嘩をしたが、半分はヴィエナが勝っていた。馬に乗るのもヴィエナの方がずっと上手い。狩りは競ったことはないが、試せば勝てる。
 マークでは無理よ。
 それは確信だった。
 屋敷中の武具という武具は蜘蛛の巣を被っていた。しかし、これだけは違う。
 寝室にたった一式残された、輝く鎧甲その他諸々。毎日毎日、丁寧に磨いてきた。少し古い方だが実用に流行は関係ない。ヴィエナは兜を深く被った。
 金属のがちゃがちゃという音が暗い廊下に響く。彼女の牙はもう、隠されていなかった。

   3

「後は頼んだぞ」
 マークは出来るだけ胸を張って言った。甲冑は最新のものである。流行の全てを取り入れたような華やかなものだ。その特異な色を除いては。
 頭を潰されても、動いていそうな男達が、動き回っている。マークは場違いな自分に気が付いて、早めに隠れることにした。
 鎧を着たまま、木に登るのは初めてだ。
『どうしてそんなに遅いの?』
 彼女は言った。腰を曲げて、見下ろしてくるポーズ。いつの日からか必死になっても追いつけなくなっていた。スカートの中を見るより早く、彼女は視界から消える。
「ちっ」
 マークは憎々しげに舌打ちした。
 いつもそうなのだ。エナは早すぎるのだ。捕まえようと思ったときにはもう、ずっと遠くに行ってしまっている。
 ようやく、頂付近に着いた。あまり、上に登りすぎると、枝が重みに耐え切れないかもしれない。
 マークは腰を掛けて、下に目をやった。
 小高い丘の上の大きな木――その上にマークはいる。ここから見渡す限りの全て、ロージャ子爵が代々守ってきた土地だ。この土地が、もうすぐ自分の手に入る。そしてなにより、子爵夫人が。
 きらり、と、闇の中でなにかが光った。
 時折、月の光を跳ね返しながら、凄まじい勢いで近付いてくる。それは一気に丘の斜面を駆け上がり、止まった。
 今度は灯火の光を受けて、輝く。その姿は畏怖さえ抱かせる。
 無言のまま、銀色の騎士は馬の腹を蹴った。軍馬ではないが、相当に質のよい馬であることは一目見て分かる。賊達の馬がロバに見える。
 だが、そう見せているのは生まれつきのものだけではない。彼女は(どうも、牝馬のようだった)主人の心に呼応しているのだ。
 馬の足にまとわりつくように近付いてきた男は肩口からぱっくり割けた。紐のようなものを持って背後に迫っていた者は振り払った切っ先に頸動脈を裂かれる。血飛沫が銀の甲冑を濡らした。そうして、二、三人打ち倒したところで、騎士は振り返った。また、賊の集団に突き進んでいく。
 少し、無謀と言ってもいい。普通に考えて勝てる人数ではない。
 その速さと怒りは数十名の男達を圧倒するのに充分な強さだった。
 銀色の軌跡の行く先には屍が残る。
 賊達も押されてばかりではない。小さな組に分かれて、組織的に動き始める。
 騎士の目が兜の向こうで、燃えるのが見える気がした。同時に、マークの全身から力が抜けていく。
「金で動いているのだろう」
 よく通る声がした。
 盗賊達の目的が実は略奪ではない――というのは有名なことだ。彼らの収入のほとんどは貴族達からのもの。時には入冠を依頼される。
「カント郷か、マーロイ公か……雇い主の名を言え」
 言うはずがない。言わないだけの金は払ってある。彼らは手を止めたが、口は開かなかった。
 騎士は甲冑の奥に手を入れ、革袋を取り出した。紐を緩め、返して振る。ちりちりと音がした。地面の上で金貨が輝いている。
 マークが払った銀貨と同じくらいの枚数だ。
「雇い主のことは話せない」
 騎士は再び、甲冑の中に手を入れた。
「では、今から、私がお前達の雇い主だ。これでどうだ」
 さっき、答えた男に革袋を投げる。男はそそくさと袋を開けた。すぐさま、それをポケットに押し込んで、笑った。
 先刻までマークに見せていた笑みだ。
「言おう。我らの雇い主はリガー郷。マーク・リガーだ」
 突如、騎士は笑いはじめた。驚くほど高い声に、マークは絶望する。
 騎士は兜をもぎ取るように脱ぎつつ、大木の方を振り返る。たった、腕の一振りで、兜は簡単に飛んだ。ゴム鞠か何かのように正しい線を描いて、向かってくる。
 マークは悲鳴をあげながら、後退した。
 が、下がる場はない。そのまま、地に向かって落ちる。

 記憶に残っているのはそこまでだ。
 気が付くと、日が昇っていた。着ていたはずの黒い鎧兜はどこにもなかったし、こうこうと燃えていたはずの灯火は灰を残すのみとなっていた。
 振り返った女子爵の見下してくる笑顔が今も脳裏に焼き付いている。
 彼女はもう、遠くへ行ってしまったのだ。捕らえようとしても、手の届かないところに……。
 マーク・リガー――しがない貴族の次男は十年前の覚悟を……そして五年前の覚悟をもう一度思い出していた。

   4

 眠り続ける息子の顔を母は穏やかな顔で見ていた。薬を飲まされたと訊いたときは少々動転してしまった。数時間もすれば、目を覚ますそうだ。
 また、住民に恐れられるのでしょうね。
 ヴィエナは考えないことにした。
 朝の白い光が、銀色の甲冑を照らす。所々に付いた血糊も、今は気にならない。
 ヴィエナはひとり微笑んで、馬の腹を蹴った。
 弾き出されるように駆け出した馬の足はまるで、細波の上の陽光のようだ。
 それは、間違いなく……主人の心を映している。

<了>
女侯爵を私が書くとこうなります。

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